祈りと懺悔 ―山頭火と戦争④

 山頭火の日記の中から、戦争のさなかにいた山頭火が何を思い、何を書き残していたのかを見てきている「山頭火と戦争」シリーズも今回で最後となります。
 最後に、平和を望み、兵士たちの死を悼み、そして自分自身の生き方を顧みる山頭火の言葉をご紹介していきます。

 日中戦争は昭和12年7月7日の盧溝橋事件が発端と言われています。その数日前の日記に、

大阪毎日新聞による、黒龍江畔風雲急らしい、どうぞ戦争にならないやうにと人民のために祈る。(昭和12年7月1日)

と書いています。「人民のために」、すなわち日本や中国に生きるそれぞれの国の国民たちのために、戦争にならないようにと言っています。
 しかしその願いもむなしく日中戦争がはじまり、山頭火の祈りは兵士の無事のため、そして戦死者を弔う祈りへと変化をしていきます。

雪がふるふる、支那遠征の将士を思ふ、合掌。(昭和12年12月5日)
駅に遺骨を迎へて涙をあらたにした。
天地人有情無情に合掌する。(昭和14年6月20日)

 山頭火の祈りは、禅僧・俳人として社会の片隅に生きる身にできる精一杯のものでした。

今朝も早くから、出征を見送る声が聞える、私はその声に聞き入りつゝ、ほんたうにすまないと思う、合掌低頭して懺悔し感謝した。(昭和12年10月20日)
午後また山口へ、三時半着の遺骨を駅で迎へる、さびしかつたけれど、私にはこれだけしか奉仕が出来ない、あはれむべし、かなしむべし。(昭和14年9月8日)

このような祈りと懺悔の思いは、実は日中戦争の始まる5年前の日記にも見ることができます。

戦争―死―自然、私は戦争の原因よりも先づその悲惨にうたれる、私は私自身をかへりみて、私の生存を喜ぶよりも悲しむ念に堪へない。(昭和7年3月4日)

太平洋戦争の9年も前ですが、この半年前には満州事変が起こっています。戦争が身近になる前から、山頭火は戦争の「悲惨」さに心を痛め、また自分自身が健康で平和に生きていることを「悲しむ」と書いています。

 山頭火も日本に生きる日本人として、ときには
「世界歴史に燦然として光輝を放つべき南京入場式の壮観が、今日の新聞では写真と共に色々報道されてゐる、ありがたいニュースであつた。」(昭和12年12月18日)
等のように「日本の勝利」を喜んでいることもあります。このような言葉も、山頭火が実際に残した言葉の一つとして受け止めなければなりません。
 しかし山頭火の日記を読むと、平和への祈りと自分自身の無力さゆえの懺悔が常にあったことが分かります。世の中が太平洋戦争へと突き進んでいく時代の日記に記されたこれらの言葉は、胸に迫る説得力をもって今の我々にも響いてくるのではないでしょうか。