企画展「雑誌『俳句研究』と自由律」をもっと知りたい!⑥

『俳句研究』と自由律

 『層雲』を主宰する荻原井泉水は、『俳句研究』創刊号から一般読者による俳句の選者を務めました。この俳句の選について、『層雲』上で次のように書いています。

層雲は層雲として深く沈潜することが大切だけれども、一般に対して新しい魂にはたらきかける触手を出してゆくことも我々の大きな任務なのである。

『層雲』第23巻第11号(昭和9年3月)

『俳句研究』創刊号から8回に渡って掲載した自由律俳句に関する評論は、まさにその「はたらきかけ」の一つでもあったのでしょう。

 実際自由律俳句は、定型俳人たちに理解されず、あるいは見向きもされないという状況でした。例えば東京三(秋元不死男)は、「定型派と非定型派の対立は既に年久しい」と言い、その原因を推測して次のように書きます。

「定型派の中で、新興俳句と『石楠』を除くと、その他殆んどは非定型派に対して何らの関心を寄せてゐない」

東京三「定型と非定型の提携を望む」(『俳句研究』第7巻第8号(昭和15年8月))

東は非定型すなわち自由律の側にも対立の原因があると続けますが、ここからも、俳壇の中で自由律が少数派であり傍流であったことが推測できます。

 しかし、当時の自由律俳句は既に全国に広がっており、定型には及ばないものの、多くの作家がいました。そのことは、『俳句三代集 別巻 自由律俳句集』を見ても分かります。
 『俳句三代集』は、雑誌『俳句研究』を発行していた改造社が昭和14年から15年にかけて刊行したもので、春、夏、秋、冬各上下と新年の定型俳句を集めた9巻と、別巻として「自由律俳句集」が出ています。
 別巻の自由律俳句集で選者を務めたのは、荻原井泉水と『海紅』主宰の中塚一碧楼でした。『層雲』や『海紅』に所属する俳人の活躍が目立ちますが、巻末の名簿には700人以上の俳人が名を連ねています。井泉水はこの自由律俳句集について、『層雲』誌上で次のように書きます。

『俳句三代集 別巻 自由律俳句集』改造社、昭和15年4月

頁数四〇〇、作家数、凡そ二千人その内、層雲の作家五百人ばかりが載つてゐる。其他は「海紅」「生活派」の人たち及び、何れにも所属しない人達である。これで見ても、自由律作家には案外処女地があるといふことが知られる。

『層雲』第30巻第1号(昭和15年5月)

 単に数で見れば定型俳句には及ばないかもしれませんが、それでも明治末期から細く長く、自由律俳句は続いていました。荻原井泉水と中塚一碧楼がその先頭に立って自由律俳句を開拓していったと言うこともできるでしょう。