ゆふべはうれて枇杷の実のおちるしめやかさも|昭和八年七月

解説

 この句は、昭和八年七月五日の日記に記されており、小郡(現山口市)の其中庵に暮らして十ヶ月程過ぎた頃の句です。
 夕暮れどき、熟した枇杷の実が落ち、静かでひっそりとしていると詠んでいます。果実は五、六センチ程の大きさで、さほど大きくはありません。それが地面に落ちる音が聞こえるくらい静かだったのでしょう。小さな音が鳴ることで静けさが際立つことはよくあります。日本庭園などにある鹿威しの音もその効果を求めた演出といえます。俳句では松尾芭蕉の「古池や蛙飛び込む水の音」などが有名です。山頭火の句でもこの他に「笠へぽつとり椿だつた」という句があります。
 句の「おちる」は「枇杷の実」のことと、「ゆふべ」つまり夕方であることから夕陽のことで「陽が落ちる」ということの両方にかかっていると受け取ることも出来ます。また、「ゆふべ」と「枇杷の実」から淡いオレンジ色が連想され、句全体に一日が終わる前の静かな時間と優しい色合いが広がっていくようです。
 山頭火の句にはビワの句がいくつかありますが、花の句や葉の句などそれぞれ分けて詠んでいます。その中から果実について詠んだ句はなぜかこの年だけなのですが、それらをご紹介します。

  雨となつた枇杷の実の青い汐風(昭和八年五月)
  夕あかり枇杷の実のうれて鈴なり(昭和八年六月)
  あめのはれまの枇杷をもいではたべ(昭和八年六月)

 五月から六月にかけて、大きくなり始めた若い実から食べ頃、そして紹介句の七月には熟成が進むまでと、時間の経過がうかがえます。
 ちなみにビワは古くからある植物で、果実が食されていたのはもちろん、葉はお茶にされて飲まれるほか、種子や根など他の部位にも薬効があるといわれています。山頭火の句にも

  誰かきさうな空からこぼれる枇杷の花(昭和七年十一月)
  楢の葉枇杷の葉掃きよせて茶の木の葉(昭和八年二月)

 などがあり、古くから親しまれている植物を身近に感じていたようです。