企画展「雑誌『俳句研究』と自由律」

 戦前に刊行されていた総合俳句雑誌『俳句研究』は、俳壇の主流であったホトトギス派をはじめとする定型俳句の俳人たちが主に活躍していました。今回の展示では、『俳句研究』の中で山頭火をはじめとして河東碧梧桐、荻原井泉水、中塚一碧楼らの自由律俳人が定型俳人たちと並んで名を連ねていた様子を紹介し、当時の俳壇における自由律俳人の活躍をご覧いただきました。

<会期>令和6年1月13日(土)~4月7日(日)

雑誌『俳句研究』について

 総合俳句雑誌『俳句研究』は、昭和9(1934)年に改造社から発刊された。当時の俳壇を高浜虚子と虚子が主宰する『ホトトギス』が席捲していた中での創刊だった。
 『俳句研究』では当時の大家だけでなく多くの新人の作品を掲載した。また、俳句に関する論争も誌面上で活発に行われた。自由律俳句の面々も、『層雲』と『海紅』を中心に名を連ねている。しかし太平洋戦争が始まる頃には誌面にも様々な制約が加わり、ついに昭和19年6月に廃刊となった。
 戦後に復刊した『俳句研究』編集部は、戦前の『俳句研究』について「当時の俳壇の開明と発展に大いに寄与した」と述べている*。

 *俳句研究編集部「俳句研究の歩み」(『俳句研究』第五十巻第六号/1983年・角川マガジンズ)

『俳句研究』と山頭火

 『俳句研究』には山頭火も自由律俳句を投稿していた。令和2年~4年に出版された『新編山頭火全集』(春陽堂書店)にも、『俳句研究』所収の山頭火句が新たに掲載された。孤高の俳人というイメージも強い山頭火であるが、『俳句研究』によってわずかながら中央俳壇とも繋がりをもったと言える。
 山頭火の作品は11回掲載され、うち3回は巻頭に名を連ねた。巻頭に作品が掲載された自由律俳人は、中塚一碧楼、荻原井泉水や山頭火を含め7人しかいない。
 その他、折々に消息も掲載され、亡くなった翌々月号に「種田山頭火氏逝去さる。」と訃報も載った。
 山頭火が『俳句研究』に投稿するようになったのは、古くからの俳句仲間である渡辺砂吐流宛てのハガキから、砂吐流を通じてではないかと推測される。『層雲』での活躍とそれによる人脈の広がりによって、『俳句研究』にも名を残すことになったと言えるだろう。

『俳句研究』と自由律の俳人たち

 自由律俳壇は当時、荻原井泉水の『層雲』と中塚一碧樓の『海紅』が二大勢力だった。しかし当時の俳壇全体の中で見ると自由律は少数派であり傍流であった。
 それでも、非定型すなわち自由律俳句は明治末期から約20年に渡って細々と続いてきた。この自由律俳句の流れを支え、『俳句研究』で活躍した主な俳人として、荻原井泉水、中塚一碧楼の二人を、そして河東碧梧桐の存在を挙げることができる。