雨ふるふるさとははだしであるく│昭和七年九月

解説

 昭和七年九月の句。小郡で詠まれましたが、防府市内で最初に建立された山頭火句碑にも刻まれており、ふるさと防府では知名度のある句です。
 当時山頭火は落ち着いて暮せる場所を探していました。川棚での結庵が難しくなったとき、小郡(現山口市)の俳友国森樹明が山頭火に相応しい場所を見つけてくれます。山頭火はすぐにそこを気に入り、自分の住む『其中庵』にしても不調和でない、と喜んでいます。
そして九月四日、これから住むことになる家の検分に出かけた日に詠まれたのが掲句です。

 ちなみに、雨の日にはだしで歩くことは、山頭火にとってはさほど珍しいことではなかったようです。山頭火は主に草鞋を履いて歩いていましたが、雨に濡れた地面を草鞋で歩くと泥が跳ねてしまうため、草鞋を脱いではだしで歩いたのでしょう。

 さて、掲句は、山頭火の個人雑誌『三八九』復活第四集に収められた随筆「『鉢の子』から『其中庵』まで」にも見られます。

 雨ふるふるさとはなつかしい。はだしであるいてゐると、蹠の感触が少年の夢をよびかへす。そこに白髪の感傷家がさまよふてゐるとは、―
  あめふるふるさとははだしであるく

これを詠むと、掲句に込められた山頭火の心情をある程度推測することができるでしょう。ふるさとに近い土地にやってきてはだしの足の裏で直接土の感触を感じると、少年の頃の思い出が甦ってきてふるさとが懐かしくなる、そんなセンチメンタルな気分で詠んだ句だと解釈できます。
 山頭火はふるさと防府に対して複雑な気持ちを抱いていました。日記でもたとえば

故郷はなつかしい、そしていとはしい、それが人情だ。(昭和九年)

と書いています。
 小郡という、ふるさとにあと一歩という場所だったからこそ、ふるさとでの苦い思い出ではなく、「少年の夢」すなわち明るく希望に満ちた幼い頃の思い出が甦ってきたのかもしれません。