この句は、其中庵時代の作。「さうぼう」という聞きなじみのない言葉が目を引きます。「さうぼう」は「蒼茫」と書き、見わたす限り広いことや、ほの暗いことを意味します。山頭火の句では、同じく昭和九年の
さうぼうとして街が灯れば木の葉ちる
があり、どちらも夕方のうす暗い様子を表現しています。
また「ゆふけむる」は、夕方、食事の支度などで煙が立ち上っていることを表しています。
「蒼茫」は漢詩でよく使われる語で、唐の詩人杜甫が愛用したとも言われています。杜甫の詩では、反乱の最中に家族の元へ帰るときに詠んだ「北征」という詩でも使われ、ぼんやりとした不安が広がっている状態を表しています。
また、同じく杜甫の詩「楽遊園歌」でも「蒼茫」が使われており、「夕ぐれ」や「夕やみ」等と日本語訳されます。この詩は前半で唐の首都長安にある楽遊園という公園の賑わいを詠み、後半ではそれを眺める自身の悲哀が詠まれ、次のように結ばれます。
此身飲罷無帰処(此の身は飲み罷(お)えて帰る処無く)
独立蒼茫自詠詩(独り蒼茫に立ちて自ずと詩を詠ず)
「楽遊園歌」はそこまで知られた詩ではありません。山頭火が知っていたかどうかは不明ですが、掲句はこの詩とよく似た発想を持っています。掲句の「さうぼう」も、夕方の暗さだけでなく、その暗さの中に広がるぼんやりとしたさみしさのようなものも表現していると考えられます。
町がほの暗くなり、家々で夕飯の支度をする煙が立ち込める中、月が出て人が行き交っている。あたたかい夕飯の待つ家に人々が帰っていく夕方のざわめきが描写されている句ですが、「月と人」とどこか他人事に言っているところからも、そのざわめきの外にいて、「さうぼう」と孤独感が広がっていく心情が表現されていると解釈できるでしょう。
参考文献:吉川幸次郎『古典世界文学26 杜甫Ⅰ』(筑摩書房・昭和五十一年)
黒川洋一『ビギナーズ・クラシック 杜甫』(角川学芸出版・平成十九年)