昭和九年十二月三日の句。小郡の其中庵(ごちゅうあん)で迎えた、山頭火五十二歳の誕生日です。
独酌一本、感慨無量。 樹明君招待、酒は亀齢、下物は茹葱と小鰕、ほうれん草のおひたし、鰯の甘漬。…… 思ひがけなくT子さんがやつてきた、一升罎を抱へてゐる、酒はいよ/\豊富だ、酒さへあれば下物なんか何でもよい。 愉快に飲んで酔ふ、街へその愉快を延長して、(以下略)
この日の日記を読むと、仲間たちと楽しいひと時を過ごしたようです。
しかし同時に、「悔いるこころに」という句が書かれています。山頭火の日記を読んでいくと、日々さまざまなことを後悔したり、これでいいのだろうかと自問自答したりしていることがわかります。
―かうしてゐて、こんなにされてゐて、よいものだろうか―この疑問が折にふれて私を苦しめる、(昭和九年十一月二十四日)
やつぱり昨夜の酒はよくなかつた、私はさういふ酒を飲んではならない。(同年十二月五日)
そのようなときに、日があたたかく照り、そして小鳥の軽やかな鳴き声が聞こえてきて、沈んだ心をゆっくりと解してくれているようだ、と詠んでいるのが掲句です。
小鳥の声を詠んだ句を他にも見ていくと、
小鳥ないてくれてもう一服(昭和五年)
明けるよりおとづれてきて小鳥はうたふ(昭和九年)
こころしづかに小鳥きてなく香をたく(哀悼一句、仙波さんに) (昭和九年)
などがあります。これらの句を見ていくと、小鳥の鳴き声は、一人で過ごすことの多い山頭火の心を慰めてくれるものだったのだろうと想像できます。
日も小鳥も、山頭火の気持ちが分かるわけではありませんが、落ち込んだ山頭火は日のあたたかさや小鳥の鳴き声に心が安らぎ、それらがまるで自分を慰めてくれているようにも思えたのでしょう。