この句は、昭和六年の元旦に詠んだものです。
山頭火は昭和五年九月、これまでの日記や手記を焼き捨てて熊本を出発し、九州を一周するように歩きましたが、年末には再び熊本に戻ります。十二月二十日には「(熊本市内を)休みなしに歩いたが、私にふさはしい部屋も家もなか〱見つからない」と書き、次の日には結局、離婚した元妻のサキノの家に泊まりました。二十三日にも、「詮方なしに、苦しまぎれに、すまないと思ひながらSの家で泊る。」と書いています。
そして二十五日に、ようやく「春竹の植木畠の横丁」の貸二階を見つけ、そこを「三八九居(さんぱくきょ)」と名付けて住み始めました。
三十一日の日記には水仙を買って飾り、お正月の準備をしたことが書かれています。昭和六年一月に入ると毎日のように水仙の句が見えさらに四日の日記には
一本二銭の水仙が三輪開いた、日本水仙は全く日本的な草花だと思ふ、花も葉も匂ひも、すべてが単純で清楚で気品が高い、しとやかさ、したしさ、そしてうるはしさを持つてゐる、私の最も好きな草花の一つである。
とあり、水仙への思い入れが伺えます。他の年のお正月にも、
壺に水仙 私の春は十分 (昭和九年)
お正月がくるかたすみの水仙ひらいた (昭和十二年末)
と詠んでいます。山頭火のお正月は水仙一輪だけで過ごせる、質素で静かなものだったのでしょう。
年が明けてからもサキノのところには何度か足を運んでいます。餅をもらったり話し込んだりしているところから、サキノもふらふらとやってくる山頭火を受け入れてはいたようですが、山頭火自身はサキノに甘えながら、関係性に思い悩むところもあったのでしょう。「垢も煩らひも洗ひ流してしまへ」(一月三日)、「訪ねてもゆかず、訪ねてくるものもなかつた、たゞぢつとして読んでゐた、考へてゐた、そして平静だつた」(同七日)等と日記に書いています。
人との関わりに疲れ、一人静かな時間を過ごしたいとき、傍らに咲く水仙がその穏やかさを守ってくれていたようにも感じられます。