ほろほろほろびゆくわたくしの秋|昭和十四年十一月

解説

  この句は、昭和十四年十一月、四国八十八ヶ所を巡る旅の途中で詠まれました。高知県の東部を歩いており、数日前には室戸岬にも行っています。
 この年の十月に山口を出て、四国遍路の旅をした後、松山に「一草庵」を構えます。ここで山頭火は約一年後の昭和十五年十月に亡くなりました。

 秋を詠んだ山頭火句はたくさんあり、そのほとんどは季節の移り変わりを感じて詠んでいますが、この句では自分の人生の「秋」を詠んでいます。晩年には、この句と同様の発想で詠んだ句が、他にも見られます。
   私と生れて秋ふかうなる私(昭和十一年十二月)
   よぼよぼ生き伸びて秋になる草のいろ(昭和十五年八月)
 また、この句を詠んだ日の日記には、
   旅で果てることもほんに秋空
 という句が見られます。自分自身の人生の終わりを感じ、それを「秋」と表現したのではないかと考えられます。
 さらにこの句では、自分自身の人生が終わりに向かう「秋」であることを「滅ぶ」と表現しています。一般的に秋は「実り」という印象がありますが、この句における山頭火の「秋」の捉え方は対極的です。

 さて、「ほろびゆく」という語は、「ほろほろ」に導かれるように使われていますが、「ほろほろ」という擬態語は山頭火にはなじみ深い語です。日記には、

  二升ほど飲んでほろ/\とろ/\、それから出かけてぼろ/\どろ/\、(昭和十年四月五日)

 と酒に酔う状態を表す言葉としてよく出てきます。そして句では、
   ほろほろ酔うて木の葉ふる(昭和四年)
   砂掘れば砂のほろほろ(昭和五年)
   うらうらほろほろ花がちる(昭和十五年)
 などと詠みます。花びらや木の葉などについて「ほろほろ」と散る様子を表すことが多い中、今回の句では「わたくしの秋」を表す語として使われています。そこには、秋の落葉のような、静かな人生の終わりがイメージされているのかもしれません。