この句は、昭和十五年八月十八日に詠まれました。松山の御幸寺の境内に一草庵を構えて住んでいた最晩年のもので、この日は、日記によると旧盆十五日だったようです。
日記には前日の十七日に
私の食卓はまずしい、しば〱お菜を缺ぎ①(原文ママ)、とき〲御飯のないこともあるが、その事実はさまで②私をかなしませない
と記しています。この頃は戦争の色も濃くなってきており、砂糖が切符制になり、二十五日には米も切符制となったと書いています。この句のトマトは、そのような中手に入った貴重なトマトだったのでしょ
さて、山頭火の句で、「ちちはは」と詠んだものは他にありません。自分自身の母について詠んだものは、
たんぽぽちるやしきりにおもふ母の死のこと(昭和十五年)
など、どれも若くして自死した母を想って詠んでいますが、一方自分の父については、
父によう似た声が出てくる旅はかなしい(昭和七年)
のように、父親に似てきた感慨を詠んでいるのみです。
このころの山頭火は、一草庵で身心ともに落ち着いた暮らしをする中で俳句や自分自身について深く考えることができていたようです。その中で両親を純粋に両親として捉え、お盆にお迎えをして供養する気持ちから出てきたのが、「ちちはは」という言葉なのではないでしょうか。
ちなみに、「掌」は普通「てのひら」と読みますが、山頭火はあえて「テ」と読ませています。これはおそらくリズム上の問題だと考えられます。その上で「手」ではなく「掌」と書くのは、手のひらの上に大事に乗せてお供えをする、という意味合いがこの漢字によって生まれるからでしょう。
貴重なトマトを、仏さまの前に、「ちちはは」前に大事に供え、両親を共に供養する、晩年の一句です。
①缺ぎ…欠き
②さまで…そこまで