この句は、昭和七年五月、美祢のあたりで詠まれた句です。
日記を読むと、九州から下関へ渡り、長府、山口、防府を経て徳山の久保白船宅を訪れ、そこから小郡へ戻っていることが分かります。そして、五月十日には大田(現在の美祢市美東町大田)の伊東敬治という友人を訪ねました。そこでしばらく過ごし、十五日には「大田から一里ばかりの山村、絵堂まで送られて歩いた」そうです。一里はおよそ四キロ、一時間程度は歩いたと考えられます。
さて、伊東敬治は、山頭火が出家する以前、熊本から東京へ上京していた大正十年頃から葉書のやりとりをしていた、山口県小郡出身の友人です。このことから、「むかしの友」とあるこの句は伊東敬治とともに美祢の山中を歩いたときのことを詠んでいると考えられます。ちなみに、この後昭和七年九月に其中庵に住むようになってからも、頻繁に交流のあった友人の一人です。
句に詠まれている「きんぽうげ」は、四、五月ごろに黄色い花を咲かせます。山頭火の句には、きんぽうげがしばしば詠まれています。
あるけばきんぽうげすわればきんぽうげ (昭和七年)
さいてはちつてはきんぽうげのちかみち (昭和八年)
ぬれるだけぬれてゆくきんぽうげ (昭和八年)
これらの句ではどれも、きんぽうげの咲く中を歩いている様子が詠まれています。
きんぽうげは日当たりのよい山野に生え、さらに、草丈は三十~六十センチと、しゃがまなくても見える位置に花が咲きます。山頭火にとっては、各地の山野を歩くなかでよく目にする、非常に身近な花だったのではないかと考えられます。
明るいきんぽうげの花を見ながら昔からの友人と歩く道中を詠んだ、懐かしさや親しみのこもった一句です。