ひかりは空から少女(オトメ)らはおどる|昭和九年十一月

解説

 この句は昭和九年十一月十二日の日記に記されています。

 小郡(現・山口市小郡)の其中庵に落ちついて二年が過ぎ、句友と語り合ったり、俳句を作って句集を出版したりという日々を過ごしていました。しばしば旅にも出ており、この年の春は信州上伊那(長野県伊那市)にある井上井月(いのうえせいげつ)のお墓参りに行こうとしました。ところが途中で体調をくずし、墓参を果たせないまま帰庵します。

 その後山頭火は、心身ともにすぐれない状態が続きました。そんな中でも「よし、ほんたうの私の句を作らう、作らなければならない、それが私のほんたうの人生だから。」(『其中日記』昭和九年十一月七日付) と、句作に励もうと自らをふるい立たせています。  

 山頭火は気晴らしによく散歩をしました。句の記された前日もよく晴れて日記には「午後散歩、折から女学校の運動会、ちょっと見物、(以下略)」 とあり、このときのことを詠んだ句のようです。晴れわたる空の下、秋の日差しがふりそそぐ様子を少女らにスポットライトが当たっているように表現しています。
 当時の小郡には小郡高等女学校がありました。前書きにある女学校とはおそらくこの学校と思われます。其中庵からも近く散歩の際に近くを通ることもあったのでしょう。沈みがちな気持ちで歩く山頭火に対し、明るい日差しの中で踊る少女らはまぶしく輝き、別世界のようですが、その対比も想像できる興味深い句となっています。

※井上井月…幕末から明治初期の俳人。
 もとは越後国長岡の藩士とされるが詳細は不明。信州を放浪し、三十余年を上伊那辺りで過ごした。