この句は、昭和九年二月六日に詠まれました。小郡の其中庵に安住していたころのものです。
一人住まいの其中庵の中、ランプの灯をつけると自分の影ができ、それが実際よりも大きく壁やふすまなどに映っている、といったような情景がはっきりと思い浮かぶ句です。
この頃の日記を読むと、山頭火が自分自身をよく見つめていたことが分かります。二月五日には、
やつぱり、句と酒だ、そのほかには、私には、何物もない。
この句が詠まれた二月六日には、
山を歩く、あてもなく歩くのがほんたうに歩くのだ、
二月七日には、
この身心のやりどころがないのだ、泣いても笑ふても、腹を立てゝも私一人なのだ。
と書き、自分にあるのは句と酒と旅だけだという思いがうかがえます。
さて、この句にある「影」という語を使った山頭火の句を見ると、
みすぼらしい影とおもふに木の葉ふる(自嘲)(昭和五年)
月があるあるけばあるく影の濃く(昭和七年)
おのが影のまつすぐなるを踏んでゆく(昭和八年)
影も春めいた草鞋をはきかへる(昭和九年)
など、旅する自分の影を詠んでいるものがいくつか見られます。「みすぼらしい」「濃く」「まつすぐなる」など、そのときそのときで変化する影の様子は、自分自身の状態をも映し出していると考えられます。
今回の句では、「ひとりの」「大きく」とあります。其中庵の室内に映る自分の大きな影を見て、一人であることを実感しているようにも解釈できます。
そもそも、写真もそれほど身近ではない当時、自分の影というものは、自分自身を目で見ることができる数少ない手段のひとつです。自分の影を見ながらしずかにおのれの姿を見つめていた山頭火の姿が思い浮かぶようです。