後になり先になり梅にほふ|昭和十一年三月

解説

 昭和十年十二月、山頭火は旅に出ました。「ゆきたい方へ、ゆけるところまで」、「死場所をさが」すための旅でした。そして昭和十一年の三月に京都、奈良を巡っています。三月二十三日には、奈良の月ヶ瀬梅渓へ行ったようです。

 川を渡船で渡されて、旅は道連れ、快活な若者と女給らしい娘さんらといつしよに山を越え山を越える。
 山城大和の自然は美しい。
 山路は快い、飛行機がまうへを掠める。
 母と子とが重荷を負うて行く。
 二里ばかりで名張川の岐流に添うて歩く、梅がちらほら咲いてゐる。
 歩々春だ、梅だ、月ヶ瀬梅渓は好きなところだつた、だいぶ名所じみてはゐるけれど。

 「後になり先になり」とは、どういった状況を詠んでいるのでしょうか。快活な若者と女給らしい娘と連れ立って歩く中、梅がちらほら咲いており、誰かが梅を見るために立ち止まることによって誰かが先に行き、誰かが遅れるという状況でしょうか。それとも、ちらほらと咲く梅が、自分たちの後ろに咲いていたり先に咲いて居たりする状況でしょうか。さまざまに想像が膨らむ表現です。

 ちなみに梅は、古来から香りについて取り上げられる花でした。防府天満宮でお祀りしている菅原道真の和歌にも

   こちふかばにほひおこせよ梅の花あるじなしとて春をわするな

 とありますし、正岡子規の俳句でも、

   闇の夜は鼻で探るや梅の花

  と詠んでいるように、梅の花の価値は、見た目の美しさよりも香りのかぐわしさに重点があったようです。