父によう似た声が出てくる旅はかなしい|昭和七年一月

解説

 山頭火の父親、種田竹次郎は大正五年二月に山頭火と共に経営していた種田酒造場の酒が二年連続腐敗したことをきっかけに、行方をくらまし、山頭火の前から姿を消しています。
 山頭火は昭和六年十二月に、一時住んでいた熊本から再び行乞の旅に出発してからの事を日記『行乞記』に書き記していますが、行乞をしながら佐賀県内に住む寺の住職を訪ねた昭和七年一月二十八日の記述にはこの句の後に、

 馬神隧道といふのを通り抜けた、そして山口中学時代、鯖山洞道を通り抜けて帰省した当時を想ひだして涙にむせんだ、もうあの頃の人々はみんな死んでしまつた。祖母も父も、叔父も叔母も、……生き残つてゐるのは、アル中の私だけだ、私はあらゆる意味に於て残骸だ!

 と書き記しています。
 竹次郎は大正十年五月八日に亡くなっていることが分かっていますが、山頭火も父親の死を何らかの形で知っていたことが分かります。
 母の自死を始めとした、辛い家庭環境にあった山頭火にとって、父とは反目する面があったようですが、この日の日記からは佐賀県のトンネルを通ったことで、山口にある学校からトンネルを通って、帰省した昔日を思い出しふるさと防府と家族に対する想いが込み上げて、抑えきれなかったようです。


 山頭火は小郡矢足の其中庵に定住する以前、故郷と家庭に複雑な心境を抱えたまま、帰る場所もなく、一人悩みながら行乞流転の旅をしていました。そんな山頭火にとって、頼りにできる肉親が誰もいなくなり、心細さを感じている中で、父によく似た声を旅先で聞いたのでしょうか、あるいは山頭火自身の話し声が父によく似てきてしまったのかもしれません。


 そこには単なる感傷では言い表せない、かなしさがあったことでしょう。

※現代の観点から見ると誤解を招く表現がありますが、日記が書かれた時代背景を考慮し、山頭火の意図を尊重する観点から、原文のままとしています。