夕立晴の花をたづねてあるく|昭和八年七月

解説

 昭和八年七月の句。この年は小郡の其中庵(ごちゅうあん)に住んでおり、そこからたびたび、北九州や山口県内など近隣に行乞することもありました。掲句を詠んだ日にも午前中に鋳銭司で行乞しています。さらに夕方には夕立があって、その後にも出かけたようです。

雷電、雷鳴、これで梅雨もあがるのだらう、今日から盛夏。
夕立が晴れて、やりきれなくて街へ出かける、わざ/\出かけてやうやく一杯だ、(略)
酒一杯ひつかけて、そして、花と句をひらうてもどつた。

 句の「夕立晴」は夏の季語で、夕立が去った後晴れることを言います。夕立によって昼間の暑さが引き、すがすがしい晴れになる様子が浮かぶ語で、山頭火もそのすがすがしさに負けて出かけたのでしょう。
 この日以外にも、近くを歩いた日には、その途上で花をめでています。また、次のような句もあります。

   歩くところ花の匂ふところ(昭和七年五月)

   すみれたんぽぽゆつくりあるく(昭和十四年四月)

 掲句の「花をたづねて」という表現からも、あちらこちらに咲いている野の花を見ることが、歩くときの楽しみの一つだったのではないかと想像できます。

 さて、山頭火の自然に対する姿勢を日記の中から読み取ってみると、次のような言葉が見つかります。

自然を出来るだけ自然のまゝで味ふべし。(昭和八年三月)
自然の姿を観てゐると、何ともいへない純真な、そして厳粛な気持になる、万物生成、万象流転はあたりまへといへばそれまでだけれど、私はやつぱり驚く。(昭和八年四月)

 「万物」、すなわちどのような小さな生き物や雑草であっても、自然に畏敬の念を抱き、そして「自然のまま」味わおうという姿勢がうかがえます。掲句では具体的な花の名前が記されていませんが、おそらくどのような花であっても山頭火は同じようにめでていたのでしょう。
 夕立の去った後のすがすがしさの中に、野に咲く花々へのあたたかい親しみが感じられる一句です。