さそはれてまゐる節分の月がまうへに│昭和八年二月

解説

 昭和八年二月三日、節分の日の句です。
 日記を見ると、小郡の句友国森樹明(くにもりじゅみょう)に誘われて「八幡宮」の節分祭に出かけたことが分かります。

学校から帰宅の途次、樹明君が寄つてくれた、誘はれて八幡宮の節分祭へ参詣する約束をした。
(略)
なか/\の人出である、自動車が遠慮ぶかく乗り捨てゝある風景にも近代的地方味がある。
樹明君と合して、こゝで一杯、そこで一杯、そして私はぐる〱まはつて戻つた(この中に無意味の有意味がひそむ)。

 国森樹明は山頭火と同じく自由律俳誌『層雲』の同人で、小郡農学校の書記として働いていました。山頭火が小郡に〝其中庵〟を構えることができたのも樹明のおかげでした。其中庵に住むようになった山頭火を樹明は日々訪ねてはともに過ごしています。
 この日山頭火と樹明が出かけた節分祭は、旧暦で新年の始まりであった立春の前日に厄を払うために行われる神事でした。現在、十二月三十一日の夜、初詣のために神社に出かけるのと同じような感覚で節分祭に参詣したのではないでしょうか。
 さて、掲句ではまず「さそはれて」と詠んでいます。山頭火にとっては節分祭に行くこと自体よりも、樹明と一緒にお参りするということが嬉しかったのではないかと想像できます。この日には、

  節分の長い石段をいつしよにのぼる

という句も残しています。
 後半には「月がまうへに」とあります。この年の二月の満月は十日で、節分の頃であればおそらく八時ごろには月が南の空に昇っていたと考えられます。

 宵の口、樹明と出かけた節分祭で、月を眺めながらゆく年くる年を想っている様子が思い浮かびます。