あるけば涼しい風がある草を踏み│昭和十五年六月

解説

 昭和十五年六月、松山での句。「涼しい風」を肌で感じながら自然の中を歩いていく、さわやかな情景が浮かびます。また、風が吹き抜けて草がそよぐ音や草を踏みしめて歩くやわらかな足音も聞こえてくるようです。

 「風」は、山頭火の句の中でさまざまに詠まれています。特に多いのが旅を象徴するような詠み方で、

旅寝は風のさみしさのはてなし 昭和九年
これから旅も春風のゆけるところまで 昭和九年

などがあります。また、掲句のような晩年の句には、風が吹き抜けることによって心が澄んでいく、という表現も多く見られます。

晴れて風が身ぬち吹きぬけて澄む 昭和十五年

 さらに「涼しい」「風」と表現している句からは、寂しさよりもすがすがしさや開放感がイメージされます。

うらから風もひとりですずしい 昭和八年
寝ころぶや雑草は涼しい風 昭和八年
生えよ伸びよ咲いてゆたかな風のすずしく 昭和十五年

これらの句を見たうえで、もう一度掲句を読んでみると、風とともに歩きながら心が澄んでいき、前向きに歩いていく姿が浮かんできます。

 この句が詠まれたころの日記を見てみると、六月三十日の日記には、友人に出す予定のハガキの内容を残しています。

私にもやうやく一転化の機縁が熟しました、虚脱的雲霧が消散して、私本来の天地に立ちかへりました。
梅雨は梅雨らしく、そして山頭火は山頭火らしく。
すなほに、ほがらかに、貧しくてもつゝましく、私は私みづからの光となりませう。

これを読むと、心が落ち着き本来の自分らしく素直に生きていこうという前向きな様子が伺えます。自然の中を自分の足で歩くという旅の初心を思い出すかのような掲句も、そのような心情から生まれたものなのでしょう。