暮れてなほ鳴きつのる蝉のかなしくもあるか│昭和十四年七月  

解説

昭和十四年七月の句。湯田温泉の風来居を拠点とし、中原呉郎や和田健ら文学を志す青年らと交流を深めていた時期になります。山頭火は湯田温泉での暮らしを満喫する一方、酒宴に興じる日々を過ごすことに疑問を抱いており、同年初夏には旅立ちを決意していました。

身心乱調―
私は近来あまりに放漫だつた、知らず識らず、若い連中の仲間にまじつて、年甲斐もなく浮れ騒いだ、省みて汗するばかりである、私は自粛して、正しい私に立ちかへらなければならない。
ことに一昨夜の自分、昨日の自分を考へるとき、私は私に対して恥づかしいばかりではなく、Yさんに対して申訳ないではないか。
(『風来居日記』昭和十四年二月一日)

(前略)旅する外ありませんから、また旅に出ます、遍路となつて四国を巡拝して来ます、今月末又ハ来月初めお訪ねいたします、そして宇品から高浜へ渡ります(後略)
(昭和十四年六月二十三日付 山口市湯田前町より木村緑平へ)

掲句は山部木郎宛ての絵葉書に記されたものです。当時山頭火は萩市の長門峡を訪れており、そこで目にした景色に感銘を受けたようです。葉書にも「よい峡中です」と記しています。
掲句にある蝉は地上での活動時間の短さと鳴き声が象徴的とされ、定型俳句では季語として用いられています。また「鳴きつのる」は鳴き声が感情の高まりとともに激しさを増していくことを意味します。夕暮れにも関わらず懸命に鳴き続ける蝉の姿とその鳴き声に悲哀を感じていたのでしょう。

山頭火は同年七月末に妹シズの元を訪れ、九月二十六日、風来居を後にしています。その後は松山の一草庵を最後の住居とし、防府の地を踏むことはありませんでした。夏の日暮れ、懸命に鳴く蝉に残り少ない己の人生を重ね、悲哀に暮れていたのかもしれません。