昭和七年五月二十一日の『行乞記』に記された句。前年末には当時暮らしていた熊本を離れ、九州各地での行乞の旅を行っていました。この旅で山頭火は九州三十三所観音巡礼を結願成就したほか、第一句集の出版に向けて準備を進めていました。
彼は長年日記をつけていたほか、各地の句友らと葉書のやり取りを続けていました。そこには見聞きした事物についての記録のほか、自身の思いが赤裸々に綴られており、俳人として言葉を大切にしていたことがうかがえます。
掲句では言葉のなかに〝すわる〟と表現しています。それほど故郷の言葉は彼の中で確かなものとなっていたのでしょう。
山頭火は大正十五年に一笠一鉢を携えた行乞の旅に出ました。以降全国を旅する生活を長く続けたため、生まれ故郷である防府にいたのは生涯の半分にも満たない期間ですが、故郷に思い入れを持っていたことは確かなようです。ふるさとを懐かしむ句を多く詠んでいるほか、日記にもその思いが表れています。
ふる郷の言葉なつかしう話しつゞける 昭和五年
ふる郷の言葉となつた街にきた 昭和五年
故郷の言葉を、旅人として、聴いてゐるうちにいつとなく誘ひ入れら
れて、自分もまた故郷の言葉で話しこんでゐた。
(『行乞記』昭和七年五月廿一日)
山頭火にとって故郷で過ごした日々は悲喜交々で、中には生涯消えない心の傷となった出来事もあります。それでも、他の旅人が話す故郷の言葉につられて自分も話してしまうほど、彼にとって故郷は無二のものとなっていたのでしょう。