企画展「雑誌『俳句研究』と自由律」をもっと知りたい!④

『俳句研究』と河東碧梧桐

 河東碧梧桐(かわひがしへきごとう・1873~1937)は、高浜虚子とともに正岡子規門下の双璧をなした俳人で、明治末期には新傾向俳句を全国に広めました。子規没後の俳壇を風靡したようにも思えますが、『俳句研究』創刊の前年、昭和8年に、俳壇引退を表明しました。

 俳句を雑誌に発表することはなくなりましたが、碧梧桐は『俳句研究』にも蕪村論や紀行文等を寄稿しています。なかでも、第二巻第四号(昭和10年4月)から始まった「明治俳壇の追憶」は、絶筆となった長編の評論ですが、これについて編集後記では「明治俳壇以来永い歴史的役割を歩いた此の人にして初めて期待出来るもの」と書いています。
 昭和12年2月に碧梧桐が亡くなると、同年3月号には「河東碧梧桐氏の追憶」という特集が組まれました。追悼文を書いたのは、子規の門人である寒川鼠骨(さむかわそこつ)、碧梧桐の弟子の中塚一碧楼(なかつかいっぺきろう)、同じく弟子の松宮寒骨(かんこつ)、子規門下で「ホトトギス」同人の室積徂春(そしゅん)、ジャーナリストの長谷川如是閑(にょぜかん)等さまざまな人物が追悼文を載せています。

 自由律俳句の祖とも言うべき碧梧桐ですが、“永い歴史的役割を歩いた”と称されるとおり、自由律俳人にとってだけでなく俳壇全体にとって、大きな存在であったことが『俳句研究』からも分かるでしょう。

『俳句研究』第一巻第七号(昭和9年9月)
碧梧桐が題字を書く。