自由律俳人として ―山頭火と戦争②

 世の中が戦争へと向かう中でも、山頭火は自由律俳人としての生き方を貫きました。その生きざまは現代の人にとって魅力的に映ることもありますが、山頭火自身にとってはさまざまな葛藤があったようです。

悲しい手紙を書きつゞける。
非国民、非人間のそしりは甘んじて受ける。(昭和12年11月11日)

「悲しい手紙」とは、おそらく無心の手紙でしょう。まだ経済統制が厳しくなる前ではありますが、国全体が戦争へと向かう中、息子や友人たちに無心をしなければ生きていけない自分自身を「非国民、非人間」という強い言葉で自嘲しています。
 このときは数日前に酒の失敗で留置所に入れられるという出来事があり、そのことに対する反省でもありました。

支那をおもふ、支那をおもへば、一度や二度の絶食は何でもない、炭火があるだけでも私にはありがたすぎる!(昭和12年12月20日)

支那、すなわち中国を思うとありますが、これは戦場となっている土地のことであり、中国という国(中華民国)のことではないでしょう。山頭火が思うのは、戦地で傷つき、あるいは命を落とす兵士や民のことだろうと思われます。

 そして、「非国民」ではあるけれども「俳人」としてできることを探していきます。

戦争は、私のやうなものにも、心理的にまた経済的にこたえる、私は所詮、無能無力で、積極的に生産的に働くことは出来ないから、せめて消極的にでも、自己を正しうし、愚を守らう、酒も出来るだけ謹んで、精一杯詩作しよう、―それが私の奉公である。(昭和12年10月22日)

自分が社会の中でできることは、慎ましやかな生活を送ること、そして俳人として精一杯俳句を作ることしかない、せめてそれだけでも全うしよう、という決心が書かれています。このような意識は最晩年まで続いていきます。
 戦時下において俳句を作ることを「詩作報国」などとも言っていますが、このような意識は山頭火独特のものではなく、この時期の多くの文学者が持っていたものでした。

文章報国―句作一念の覚悟なくては、私は現代に生きてゐられない。(昭和14年7月7日)

そして昭和13年には、愛国婦人会の要請で非常に喜んで揮毫をしています。

愛国婦人会の本部から来信、傷病将士慰安のために書画展覧会を開催するから、彩筆報国の意味で寄贈せよとの事、私は喜んで、ほんたうに喜んで寄贈する、それだけでも私の自責の念はだいぶ救はれる、ありがたいと思ふ。(昭和13年7月9日)

ここで、自責の念が救われると言っているのは、やはり国のために何もできることがないという思いをずっと抱えていたためではないでしょうか。

 国全体が戦争へと向かう中、山頭火も日本人として国のために自分ができることは何か、ということを常に考えていたことがうかがえます。この時期は太平洋戦争の始まる前で、日本に暮らす人々が命の危機にさらされることはありませんでした。それでも、国家総動員という名のとおり、多くの日本人が“国のため”と考え節制して暮らすほかない、苦しい状況だったことが想像できます。
 山頭火の日記には、この時期に生きた日本人の嘘偽りのない言葉が綴られています。