自由律俳人種田山頭火は、昭和15年10月に58歳で亡くなりました。太平洋戦争が始まる前の年で、山頭火の最晩年の日本は、戦争へと突き進んでいく時代だったと言えます。
戦争は、社会の片隅で生きる山頭火の生活にも影響を及ぼしていました。俗世を離れ自由奔放な生き方をしているような印象もある山頭火ですが、実は社会の動きには関心を持っていたようで、日記や句にも戦争について言及されています。
今日から数回にわたって、山頭火の日記や句から、戦争について触れている部分を抜き出してご紹介していきます。太平洋戦争直前の日本に生きて、山頭火は何を思い、どのように表現していたのでしょうか。
戦争に関する記述が増えるのは、昭和12年、日中戦争が始まった年からです。
銃声、喊声、非常時らしく聞える、至るところに軍国風景が展開される。(昭和12年1月22日)
昭和12年7月7日には盧溝橋事件が起こり、8月には中国に対する全面戦争へと発展、日中戦争が始まりました。
毎日毎夜、万歳々々の声がきこえる、出征将士を見送る声である、その声が私の身心にしみとほる。
7月30日には、出征を見送る万歳の声が「身心にしみとほる」と書いています。しみじみと彼等の無事を祈っているのでしょう。
その後もさまざまな場面で戦争の色を感じていることが日記からわかります。
埠頭で青島避難民を満載した泰山丸を迎へる、どこへ行つても戦時風景だが、関門はとりわけてその色彩が濃く眼にしみ入る。(昭和12年8月30日)
戦時的色彩が日にまし濃厚になる、私もひしひしと時局を感じる、しみじみ戦争を感じる。(昭和13年7月3日)
戦地の状況については、新聞を通じて情報を得ていたようですが、それに対しては
戦争の記事はいたましくもいさましい、私は読んで興奮するよりも、読んでゐるうちに涙ぐましくなり遣りきれなくなる。(昭和12年10月22日)
と書いています。勝利を望むよりも、亡くなった命や傷ついた人々を思いやっているのでしょう。勇ましく戦う兵士たちの命が失われていくことを止めることができない、その事実に遣りきれない涙を流しています。
泥沼化する戦争の影響で、昭和13年には国家総動員法が成立し、国民の生活は少しずつ苦しくなっていきます。それは山頭火にとっても同様でした。
物資統制、価格公定、等々で戦時色が日にまし濃厚になる、私もまた日にまし生活の窮迫に苦しむ、だが、物心総動員の秋だ、誰でも頑張らなければならない。(昭和13年7月13日)
酒をやめられないことで日々失敗と反省を繰り返していた山頭火にとっても、戦時下の統制は苦しいものだったのでしょう。しかし国のため「頑張らなければならない」という言葉があるように、国民精神総動員運動や国家総動員法は、確実に山頭火をも「大日本帝国」の国民たらしめていたのかもしれません。
さて、今回は日中戦争初期の頃の日記から、「戦時風景」を感じている部分をいくつかご紹介してきました。最後に、昭和13年4月の日記から引用します。
戦争は必然の事象とは考へるけれど、何といつても戦争は嫌だと思ふ。(昭和13年4月13日)
この言葉は、当時は公にできなかったものではないでしょうか。しかし、当事国の国民として、心の底からの正直な気持ちだったと思われます。日記に書かれたからこそ今でも残っている、貴重な言葉かもしれません。
(山頭火ふるさと館 学芸員 高張優子)